なぜ虐待児が助けてと声をあげないのか?

クリスチャン

虐待児の思考

虐待の記憶、感情を思い出すことは辛いけど、誰かに知ってほしい。

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虐待されている子がなぜ助けてと声をあげないのか?

助けがあることを知らない

子どもの世界は大人が思っている以上に狭い。当時のわたしは12~17歳。家族は社交的で毎週教会に行き、クリスチャンとの交わりが多い家庭だったのに、だ。

養育者から虐待を受けている場合、虐待を受け入れなければ生きていく場所がなくなることを強く意識する。

わたしの場合養父の機嫌を損ねると養母を困らせること、家庭内に不穏な空気が流れることを嫌い、ひたすら口をつぐんでいた。

自分の生きる場所を確保することに必死な被害者児童は、その世界が壊れないよう、これ以上状況が悪化しないように、刺激しないようにと考える。外に助けがあるとは考えが及ばない。

本来一番信用できるはずの大人が加害者であるため、外部の大人に対して期待をすることさえ知らない。加害者の立場を悪くすることは報復を受けることになると考え、他者に対しては加害者との関係を良好なものに見せる演技をする。

気づいてほしい思いと、気づかれてしまうと怖いという思いから、直接的な信号を送ることができない。

 

思い込みによって行動ができない

わたしの環境はクリスチャンホームであったが故に、養父の虐待行動は全て「悪魔」によって操られているからであると信じていた。

寝る前のお祈りを理由に部屋に入ってくるため、憎むべき悪魔と愛すべき養父が同一人物であることに対する混乱、状況が上手く把握できない。

虐待中以外は愛情を受けようと必死に振る舞う。そうすることが自分を守る方法だと思っている。当時は自我を喪失していたと思う。

 

SOSを否定される

養母の思い込みもあった。自分の夫が虐待をしていることなど想像もしないので、わたしが必死で発したヒントを見事にスルー。

「養父はなぜキスで舌を入れてくるか?」というわたしの質問に対し、「養父」と言ったことは言い間違いで、舌を絡めてくることは子供が考えること自体がおかしい、と否定。

その後養母に気づいてもらうことは得策でないと考え、虐待される状況を作らないように行動することに必死になり、助けはない、求めることができないと思い込む。

 

罪悪感の植え付け

自分が養父に虐待されていること自体が養母に対する裏切りだと感じるようになる。

自分が夫婦の絆を壊してしまう存在であることに対して罪悪感をもつため、良い子を演じる。

養父に対する嫌悪感の反動で養母に必死で愛されるように望むのに、養父を嫌うわたしは彼女に受け入れてもらえない。

養母に対して隠し事をしなければいけない自分に対して嫌悪を持つようになった。

加えてキリスト教という性忌避思想の影響もあり、現状に甘んじなければ生きていけない自分に自己嫌悪と劣等感が芽生える。

 

虐待は必死に崖にしがみついている状況と同じ

助けを求めるということは、崖にしがみついている手を放すことと同じ。

傾斜のある岩場を探り足で進み、視野も狭く足元しか見えていない状況では、助けを求めることのほうが恐怖なのだ。声を出すだけでバランスが崩れるかもしれない。

不思議と良い時の養父には愛されたいと強く願う。悪いのはわたし。必死に愛を求める。

自分の行動で家族の運命が変わってしまう恐怖、加害者以外が背負うことになるもの、失わせてしまう恐怖が、虐待児童が自分から状況を変えることができない理由のひとつで、わたしを縛ってきたものだった。