荒野の誘惑
新薬聖書で有名なエピソードである荒野の誘惑。
マルコ1:12-13
マタイ4:1-11
ルカ4:1-13
悪魔は絶妙なタイミングで仕掛けてくる
悪魔が仕掛ける3つの誘惑の1つ目、飢えているイエス様に石をパンに変えてみろと唆すシーンがある。
まさに飢えに苦しんでいる時に、easy way out を示してきたのである。
チャンス!?誘惑は喉から手が出るほど欲しいタイミングでやってくる
現在ただひたすらお金が欲しい。いくらあっても足りない現状。
こんな時になぜか愛人契約のお誘い。結婚したい彼氏いるし。愛人契約なんて要は売春じゃん。
絶対に受けない話だと思っているのに、頭の中でシミレーションすることがやめられない。
考えてしまうだけで嫌悪するのに、勘定してしまう。
てか、なんで今ってぐらいピンポイントなんですけど。
誘惑の種は自分で蒔いている
悪魔はこんなにもわかりやすいく誘惑してくる、それも的確に弱点をついてくる。
それは自分が求めているものだから。
今回も、自分に下心かある富裕層の男性にお金ないアピールしてた自分がいた。
こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢、こんな夢、いっぱいあるけど。
みんなみんなみんな、叶えてくれる、不思議なポッケで叶えてくれる。
この不思議なポッケの持ち主が青ダヌキではなく、タヌキおやじだったりするわけだけど。
正々堂々と働いているだけじゃあ、きつい。
もう水商売のバイトだってしているじゃあないか?
罪悪感よりも焦燥感が上回ってくる。
これはチャンスなんではないか?
人生が好転するのではないか?
上手くやっている人の話を見聞きして、だったら自分だってと思ってしまう。
自分がやっていること、やろうとしていることが神の道から逸れていて、それが本当のチャンスを逃す寄り道だったり、罠だったりするのを知っているのに。
誘惑を認識して祈る
こんなにもわかりやすい悪の道への誘い。慣れてしまって大した罪悪感もない。
だから、罠にはまらないように祈る。
誘惑に打ち勝てるように。
動けなくなる場所へ行かないように。
そして追い打ち
こんな時に限って急に電話が鳴る。
悪魔が背中を押そうとしているんだろう。
もったいない、話を受けるべきだと囁きたいのだと思う。
耳を貸してはいけない。
踏み止まる力
物理的に誘惑が多い場所から離れられない自分にできることは祈ることだけ。
友達に状況を説明して、一緒に祈ってもらうことにした。
自分だけの力じゃあどうにもならない。
アカウンタビリティを持つ必要がある。
「アカウンタビリティというのは、自分がしなければならないことを明言することで、やり遂げる確率を高めることを言う」(引用:実践版GRIT やり抜く力を手に入れる)
今回のことも友達にシェアすれば、間違った道に進みにくくなるはず。
咎人の歩み
こんな世の中を一人で歩いていればどれだけの誘惑に会うことだろう。全然前に進まない。心が毒されていくことを感じる時もある。
だから毎週教会に行く、繋がっていることが大切なんだ。
支えてもらいながら、時には誰かの力になりながら、天に帰る日まで歩き続けないと。