クリスチャン同士のコミュニケーションの大切さ

クリスチャン

悪人から見た世の光とは何か

 
最近自分のプライベートと仕事のスケジュールを日曜に入れてしまい教会に行けていなかった。ここ数か月くらい異性関係がごたついていて、気持ちがどんどん教会から離れていくことを感じていた。
そんな中、久しぶりに地元に戻ったクリスチャン友だちから連絡があり、たわいもない話をして「あっ、今週は教会いかなきゃ」と思えた。純粋にわたしの生活や教会生活を気にかけてくれている友だち。隠し事だらけの生活を送っている自分。そんなこととは知らないからだろうけど、少しだけでも教会に居場所があるかもって思えた。
教会の人間関係が煩わしくて離れていく人って多い。そんな中、教会に戻ろうって思うきっかけになってくれる人もいる。
教会、会社、水商売、それぞれ異なる人間関係があるけれど、どっかに偏らないようにしている。
教会の人間関係が全て清いわけでないことは体に染みついていて、この世に聖人君子なぞ存在しないと思っているから。
だけれども、教会で過ごす時間が減って夜の時間が増えると、いとも簡単に落ちていくことを毎回実感する。
言動が下品になり、清く正しいものが煩わしくなる。心が傷つかないように割り切るから、なかなか心を許せる相手を見つけられない。疑心暗鬼の人間関係、どこもそうだろうと穿ったものの見方しかできなくなる。
純粋、信頼といった言葉はジョークにしか聞こえない。重傷だ。わかっている。
なんで出口が無い道と分かっていながら進むことしかできないのか?
祈れば引き戻せって言われることが怖くてできない。
だって微睡の中が心地いいから、もう葛藤したくない、考えたくない。
わたしがクリスチャンであるといったところでまぁ否定されるのは分かっている。ただの弱虫でクズだ。
それでも、クズだけれども、十字架の救いを信じているし、離したくない、愛されたい、いつまでも神様に対しての試し行動が止められないガキなのだ。
悪人にとってクリスチャンとの関係とは
泥色に染まった道を歩いているわたしの前にホタルほどの明るさを与えてくれているのは教会で出会った人達。
わたしの生きてきた道の脇には綺麗な水流があることの証をしてくれている。
なら今泥色の道を一緒に歩いている人達にとってわたしはホタルになれるのか? 
惑わす光にならない強さが欲しい。