恋愛について聖書が正しいと実感した理由

クリスチャン

恋愛について聖書が正しいと実感した理由

 

多くの時間と心を恋愛に費やし、今も翻弄されている。

聖書に書かれているルールの多くは私たちを守るためのものが多いと実感する。

なぜ、純潔のまま結婚すべきだったのか。

神はわたしを何から守りたかったのか。

 

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結婚が前提にない恋愛

不倫に疲れ切っていたわたしは愛のことばを一切言わない男、将来を語らない男、二人の男性に恋をしている。

二人の男には今までで一番誠実だと感じるのが不思議だ。

離婚や不倫が珍しくない今の時代では、結婚に対する信頼が薄いように思う。

恋愛を繰り返し、例外なく心に傷を負ってきたからかもしれないが、相手に何も望まなくなってきて、半ば諦めている。

元彼たちが結婚という契約を結ぶ前から軽く口にしていた、「ずっと一緒」、「お前が最後の女」、「愛している、この気持ちは変わらない」は大人の男が発すればわたしのような女には不安を煽るだけの言葉だ。

今までその通りであった男はただ一人としていないのだから。

感情のままを口にし、恋心に陶酔し、先見の目を持たない人たち。

例外が一人だけいるが、わたしと一緒にいることで精神が崩壊し、別の女と子を儲けた。

唯一わたしを一番だと思い続けてくれている男はわたしの傍にはいない。

 

不倫は憔悴する

矛盾の中で生きていると心は徐々に弱っていく。

どれだけ純愛を語ろうとしても、そこにあるのは不貞であり神に背く行為であり続けるから。

不倫をする人は同じ過ちを繰り返す。

離婚が成立しない状態でも、傍に居たいからと判断を相手に委ねるから相手を憔悴させる。

罪悪感を感じているうちはまだいい。

その恋愛を正当なものだと神に訴える人の心は病む。

世間からも神からも背を向けた人間に宿る闇は心身を蝕んで、依存し、疑心暗鬼になり、不のループで空回って終わる。

たとえ略奪愛が成立したところで次は自分、どこまで信じようとしても一点の曇りもないところまで信じ切れるほど人の心は単純ではない。

 

不倫の狭間で生きる子 

自分の手で育ててない子どもに対して、同居時と同じだけの愛情を持ち続けることは不可能だ。

子どもが家を出て精神が病んだ者も、年月が経てば愛情も薄れる。

愛情不足、不倫予備軍の出来上がり。

まだ親の庇護が必要な年代の子に対して親の不貞がどう映るのか。

わたしは恋愛を家に持ち込まないように心がけた。子どもの将来、思考、嗜好に影響を与え続けることになるから。

それでも影響がない訳がない。

どこまでも自己満足な無責任な行為であることには変わらない。

 

不倫や世俗的な恋愛を応援するクリスチャン

不倫の状況は人それぞれだ。

状況を不憫に思い、後押ししてくるクリスチャンがいる。優しい。友達であれば見ていられないのだろう。

普通の世俗的な恋愛でも姦淫であることに変わりはない。

なので肯定されたところで本心で語れるものではない。

隠すことも疲れるが、話すことも疲れる。

結局は自分に都合よく解釈したいだけなのだ。

 

心が疲れてくると、無感動になっていくのがわかる。感情を圧し殺しているのだから。

神のルールはわかりやすいのに難しい。